チラ裏

適当に色々

恐怖を感じる話

 私は高所恐怖症である。それ自体は良くあることだが、よくよく突き詰めてみると、「高いところから落ちて死ぬのが怖い」という点に行き着くことに気がついた。

 高所恐怖症というより、普通に死が怖い。昔からそうで、自律神経が崩れ始める夜になると特に一人泣いていることが多かった。最近はそういうことは無いものの、やはり死について考えてしまうと体の内側で何かぞくぞくとする感覚に襲われる。

 しかし生命である以上死ぬことを避けることは出来ない。そのことは十二分に理解しているつもりだが、怖いものは怖い。自分だけは死にたくないと思う。周りの人間が死んでしまうこともそれはそれで悲しいとは思うけれど、私の命と引き換えに生きていてくれると言われても、私は命を引き渡すことは無いだろう。

 死にたくはないが、別段生きていたいともとも思わない。将来には不安しかないし、実際問題今よりも困窮した日本になることは間違いがないのに、何故生きていなければならないのだろう?とも思う。しかし死にたくはない。

 こんな感情も死んでしまえばなくなってしまうと考え始め、体がぞくぞくとして気分が悪くなってきたので、この辺でやめにする。長ったらしく書いたが、とにかく私は死にたくないのだ。

好き嫌いの話

 私は基本的に誰とでも仲良くはなれる。仲良くという定義を「話せる」ということに置けば私は基本どんな人間でも仲良くはなれる。

 しかし私にも好き嫌いはある。だがそれが本当に「好き」と「嫌い」に分けられているのか、最近よく分からなくなってきてしまった。

 確かに、嫌いな人間というのは居るものだと思う。しかし私が嫌いだと思っている人間とも普通に話すことはできる。ただ一部分が嫌いなだけでその人間の全体を嫌いだと判断してしまっているのだ。簡単に言えば、「嫌いだと思い込んでいる」というようなことだろうか。

 よくよく考えてみれば、好きな人間にも嫌いなところはある。そうなれば私は本当にその人間のことが好きなのか?と疑問を抱えることになってしまう。難しく考えすぎだと思われるかもしれないが、私にとってはそこそこに大事なことだと思っている。

 

 このことについて思ったのは、私はやはりあまり人に興味が無いのでは無いかということである。確かに人の創り出すものに対して好き嫌いはあるものの、人自体に対してはそんなに考えることは無い。自分の人生なのだから自分以外は関係無いというスタンスで生きてはいるが、それが影響を及ぼしているのだろうか。

 こう考えてみると、私は好きと思い込んでいる人間にも、嫌いだと思い込んでいる人間にも分け隔てなく笑顔で話してしまうし、それは別に機嫌取りのつもりもない。ただ話すことが楽しいから話すのだ。話す人が面白いからではなく、人の話が面白いからだと思う。その人自体にそんなに価値は感じていない。

 

 価値を感じている事柄は、楽しいと思う何かと、自分の生のみな気がする。厨二病と言われても良いけれど、これは昔から変わらない私の思いなのかもしれない。自分可愛さだけで生きているために、自分を楽しませるコンテンツとしてしか他人を見ていないのかもしれない。それはそれとしてしまっている自分に対して、別に薄情だとも思わない。当然のことである。

 

 もう少し書きたい欲求はあるものの、残念ながらバイトなのでまた気が向いた時に書くだろう。何を書くかは決めていないが。

記憶力の話

 私は記憶力がかなり悪い。瞬間的な記憶力は程々にある為に英単語の小テストなどは朝に少し単語帳を見れば何となくで出来るのだが、人間関係だとそういかなくなる。

 高校生という建前上、どうしてもクラスメイトと話す機会はある。ただ、その時にどうしても名前を思い出すことが出来ないのである。中学生の頃はそんなじゃなかった、と思うと同時に、環境が変わったことによって自分の対人記憶のなさが浮き彫りになっただけだと自覚するのだ。

 

 小学生や中学生の時のクラスメイトの名前を覚えているのは、彼ら彼女らが胸に名札を付けていたからだ。中学生の時は苗字しか無かったものの、教室の後ろに名簿が貼ってあったので、それと名札を見比べて「この人はこういう名前なのか」と確認することが出来たのだ。

 しかし高校生になると名札なんてものはなく、名簿も教師が見る用のものしかない。これにより、私はクラスメイトの名前を覚えることすら困難になってしまったのだ。

 一緒に修学旅行へ行って同じ班になった彼女らも、顔は分かるが名前は分からない。名前が分からないまま話すのも日常茶飯事である。

 最近一番衝撃を受けた事柄は、私が落とした消しゴムを拾ってくれた男子を見た時、顔も名前も分からなかったことだった。きっと私は他のクラスの人間と同じクラスの人間をごちゃ混ぜにして「この中のどれがお前のクラスの人間が」と問われたら答えることは出来ないだろうと確信した。それは二月の話である。

 

 これは切実な悩みであり、私自身どうにかしたいと思ってはいるのだが友人には「有り得ない」と一刀両断されてしまい途方に暮れている日々だ。どうしてなのかと友人と話していると友人は「その人達に興味が無いからじゃない?」とも言ってきた。それはそうだと思う。

 何ならそれは人間関係だけでなく学習面にも分かりやすいほどはっきり出ていて、本が好きな根っからのオタクな私はどう足掻いても文系にしかなれない。数学や理系科目はまるっきりである。

 ただ、人間興味が無いことに対して興味を持てるかと聞かれたならば、答えはノーになるだろう。興味が無いことには、どう足掻いても興味を持つことは出来ない。

 

 だから、私は人に興味を持つまで人のことを覚えることすら難しいのだという結論に至るしか無くなってしまうし、その解決方法は現実的に難しいものばかりである。だから私はいつも通り開き直って、名前も知らないクラスメイトと雑談に勤しむことになるのだった。

初め

適当に自分の考えをまとめる為には何が最適か考えた結果ブログが良いと判断したので、初めての記事はこれになる。

 

 これを読む人がいるのかどうか私にはわからないけれど、日記のように思ったことを綴るだけのものになると思う。

 何故これを書き始めたかといえば、自分の考えすらよく分かっていない未熟者であるから、思ったことをまとめていけば自分の考えが分かるのではないかという安直な考えである。

 他人に向けた日記、という体で書いていこうと思う。誰も見ていなくとも、結局は自分が読むことになるのだから同じだろうという雑な思考ではあるが、まあそれはそれとしておきたい。

 

 一番初めなのだからまえがき程度の気分で書き連ねてはいるが、このままだと永遠に意味の無い文を書き続けられてしまうのでこの辺りでやめにしておく。自分の考えは次の記事からまとめることにする。